杉山 正 - Claude Gordon

Claude Gordon Biography

band leader, trumpet virtuoso and educator              

 
数々の教則本や自身が設計したトランペット(LA BENGE,  USA SELMER 社製造)を世に残した素晴らしい金管楽器教育者でもある。 すべての教則本はカールフィッシャーから出版されており日本の楽器店でも容易に手に入るが彼のトランペットはどちらも製造が終了してしまったのでほとんど手に入らず、少ないながら中古で手に入る可能性がある。 しかし少々プレミアが付いている感がある。 マウスピースに関してはクラウドのコンセプトを完全に理解、実践出来るラリースーザ氏にオーダーする事によって完璧なものが手に入る。 私のトランペット、フリューゲルホーンのマウスピースともラリーの手によるものだ。
 
 

 
according.jpgクラウドは1916年、モンタナ州ヘレナの音楽一家に生まれた。父は歯科医だったがクラリネットソリストとしても一流で、後にクラウドの師となるH.L.Clarkeと友達だった。コンサートピアニストだった母はクラウドの父親、兄弟、姉妹達と一緒にオーケストラを結成し、クラウドが生まれた後引っ越したグレートフォールスのKFBBというラジオステーションで何年も演奏をした。 クラウドはトランペットを吹きたかったのだが、少年時代、心音に雑音が入ると診断され医者にトランペットを吹くことを禁じられていたので、やむなくアコーディオンを演奏することにした。(この頃、トランペットへの思い入れがかなり強かったようでアコーディオンを演奏しているクラウドの傍らにトランペットが置いてある写真が残っている) 思ったより早く健康を取り戻しトランペットを吹けるようになったクラウドは、9歳の時学校の仲間と“The Gordon Eight”というバンドを結成した。
 

 
Clarke&Claude.jpgロングビーチのクラークの家の前で。2005年に訪れた時、この家は当時のままだったが、クラークと縁もゆかりもない人が住んでいた。1936年、20歳の時クラウドはハイスクール時代からの恋人、ジェニーと結婚した。この頃カリフォルニア州ロスアンジェルス近郊のロングビーチに住んでいた『トランペットの父』と呼ばれていた H.L. Clarke のもとでトランペットを学びたいという強い欲求が出始め、そこに引っ越すこととなった。当初彼等はお金がなかったのでジェニーの従兄弟と住んでおり、クラウドはレッスン代と日用品等を買うためペニーズデパートでアコーディオンを売って生計を立てていた。そしてたまにクラウドとジェニーはスリフティーズドラッグストアで45セントで買えるステーキディナーを分けて食べたと聞いた事がある。クラーク は直ちにクラウドの才能に気付き、持っているすべてをしっかりと丁寧に教え、後にクラークはクラウドを後見人として認めた。クラークがクラウドにいつも言っていた言葉『立ち止まらず私を乗り越えて先にいきなさい』は彼の心に響きどんな逆境にあっても乗り越える力となったようだ。1945年クラークが亡くなった後、クラウドは4年程ルイ・マジオについて学んだ。この偉大な二人に影響されてクラウドは最初の教則本となる“Systematic Approach to Daily Practice for Trumpet”を書き始めた。 当然彼は音楽界において頭角を表し、40歳で “I Love Lucy,”≪この番組は日本でも放映されており、大変人気だった≫ “ Lucky Strike Show,” “Maxwell House Show,” “Dick Powell Show,” “Amos and Andy,”  “Jack Benny,”  “Gun Smoke” などのTVショーのスタジオオーケストラのコンダクターとなった。 
 

 
cd_backtoavalon.jpg1950年代に入るとビッグバンド音楽はすたれていき、ロックンロール、ビ・バップ、ハードロック等に変わっていった。 それは音楽のスタイルだけでなく人々のダンススタイルにも影響をおよぼし、ビッグバンドをバックにダンスをしていた人々を当惑させた、とクラウドのレコーディング広報担当者だったネル・コーワンは語っていた。 その頃、ビッグバンドファンを集めるために全米規模のビッグバンドコンテストが行なわれた。 
“The Best New Band In America Contest”と名付けられたコンテストはニューヨークのローズランドボールルームで行なわれ、183のトップバンドが各地から集まった。“The Gordon Clan”(Clanというのはメンバーがゴードン一族由来のタータンチェックのブレザーを着ていたことから付けたバンド名)はもとよりクラウドの素晴らしい演奏は最終審査に残ると誰もが確信していた。 
その時の審査員は Stan Kenton, Woody Herman など錚々たる顔ぶれだった。そして「優勝は“Gordon Clan”! 」とアナウンスされた時ファンは狂喜したそうだ。 クラウドはカタリナ諸島のアバロン・ボールルームと夏中演奏する契約を結び “Gordon Clan” は第2次世界大戦以来、有名なカジノで演奏した始めてのビッグバンドとなった。その後、バンドのスケジュールはハリウッドパラディウムにおけるコンサートの日程ですべて埋まりクラウドのバンドは大成功をおさめた。 
 
ビッグバンドコンテストで優勝した後、バンドはすぐにワーナーブラザースと契約を結んだ。 レコーディングは通常スタジオミュージッシャンによって行なわれるが、クラウドはスタジオミュージシャンではなく長い時間かけて自分が教え、リハーサルをしたミュージシャンを使いたいと主張した。 このことは実にクラウド・ゴードン的であり彼の誠実さがよく出ている確かな決定であった。そのメンバーの中には後にボストンポップスオーケストラのメンバーとなったすばらしいプレーヤー Billy・May がいた。ゴードンバンドは西海岸から東海岸をコンサートツアーし、その南ルートはしばしば予約で一杯になった。 観客もダンサーもクラウドのゴージャスでファンシーな音楽に酔いしれた。 バンドにおける彼のリーダーシップは最高の規範となり、音楽界に偉業を残した。また、演奏の傍ら絶えず金管楽器奏者を教えていたクラウドについて「彼は偉人の1人だ」と前出のネル・コーワンは語っている。 
 

 
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1969年にビッグベアレイクに家族とともに引っ越した彼は自分の自家用機でロスアンジェルス、エンシノのスタジオまで教えに行っていた。その飛行時間は3,000時間にも及んだ。飛行訓練中に学んだ航空力学のWind Power と Wind Control が金管演奏における大事なポイントだという事に気がつき、その力学がその後のレッスンにおいてしばしば応用された。私自身のレッスンにおいても飛行機の翼やパワーに例えて空気の流れを分かりやすく説明してくれた事を良く覚えている。
 


CG&Frank&Masashi.jpg加えて1978年に初めてサンフランシスコでブラスキャンプを行ない次にアイドルワイルド、 のちにロスアンジェルスにあるラ・シエラ大学、 そしてロマ・リンダ大学と場所が変わっていったが毎年ワークショップが行なわれた。生徒達はアメリカ全州はもとより、ヨーロッパ、日本をはじめ世界各地からも集まり ブラスキャンプは17年間続いた。 彼の業績をたたえ1992年ラ・シエラ大学は音楽博士号をクラウドに与えた。(右写真は受賞の祝賀コンサート終了後で右端がクラウド、中央が私で左はフィラデルフィアシンフォニーの元主席トランペット奏者フランク・キャデラベック) 
 
 

 
Jenny_Claude.jpg クラウド & ジェニー・ゴードン1980年代後半はクラウドにとって不幸に見舞われた年だった。1988年、苦楽を共にした最愛の妻ジェニーが風邪がもとで亡くなり、続けて長男ゲイリーを亡くした。ゲイリーはジェニーの葬儀の朝、心臓発作が原因で数週間後に亡くなったのだった。そして最悪なことにクラウドは喉頭ガン、コンサートピアニストとして著名な次男スティーブンはリンパ線のガンと診断され、一年半後スティーブンは亡くなった。
クラウドへの放射線治療は文字どおり彼の喉を焼いた。そのため彼は大好きだったトランペットを吹くことが出来なくなった。そうなってもなおクラウドは1993年の後半までビッグベアの自宅で生徒を教えていた。1人の人間にこんなにも不幸が続くなんていうことがあるのだろうか、、、私はその時言葉で言い表せないほどの悲しみを感じた。特にジェニーは初め右も左も分からない私を気づかい世話をしてくれ、いつも元気で私達弟子を励ましてくれていたので兄弟子のカール・リーチからの電話には始め信じられず本当にショックだった。 ジェニーは実に献身的にクラウドに尽くしていたのを思い出す。 
ある時私はジェニーに靴下を履かせてもらっているクラウドを目撃したことがあるが本当に仲の良い夫婦だった。またジェニーはクラウドの愛弟子達1人1人に手編みのセーターや室内履きをプレゼントしたり、 私達の娘が生まれる事を知って手編みの可愛らしいベストと靴下を送ってきてくれたりとみんなのお母さんのようだった。とても暖かい人でスタッフからは‘ボス’と呼ばれており、私の妻ともよく気が合っていて彼女に‘リトルボス’のバッジをくれるようなウィットもあった人だった。
ある時スタッフミーティングでみんなふざけて汚い言葉を使って盛り上がっていたことがあったが、ちょうどキッチンで洗い物をしていたジェニーは洗剤とブラシを持って「そんな汚い言葉をいう口はこれで洗わなくては、、」とスタッフ達を追いかけ回したこともあった。 そんないつも明るく親切なジェニーをみんな心から慕っていた。実際クラウドもジェニーには頭が上がらなかったようだ。 
 

Arturo..claude.jpgアルトゥーロ・サンドバルとゴードン 
クラウドは1983年まで彼のバンドとともに演奏旅行を行なっていたが心臓発作が原因で一切のロードワークが出来なくなった。 1980年前半に心臓の4本のバイパス手術を受けたことが彼の演奏家としての輝かしいキャリアに終止符を打つきっかけになってしまったのだ。 
何千といる彼の生徒の中には例えばアルトゥール・サンドバルのように現在活躍中の素晴らしいトランペットプレーヤーがいる。 アルトゥールはクラウドのいくつかの教則本からトランペット奏法を学んだ。 彼はラ・シエラ大学で行なわれたクラウドの博士号授賞式に駆け付け、その夜大学のホールでブラスワークショプに参加していた私達にコンサートを開いてくれた。 そのコンサートの中で、「クラウドに次の曲を捧げます。」と言ってBody and Soul を演奏した。 それは実に感動的なプレイだった。 その時クラウドを見たら目が潤んでいたのがわかった。 
 

 
ここでクラウドの二人の息子について少し書いてみたい。長男ゲイリーもトランペットを吹いていたがショッピングモールに防音タイルを取り付ける仕事を選んだ。次男スティーブンは音楽一家だった境遇を受け継いでコンサートピアニストとなった。9歳にしてハリウッドボールでデビューし、26歳の時チャイコフスキーコンクールに出場した彼は結婚するまでソロピアニストとして数々の賞を取った。彼の妻ナディアもまたコンサートピアニストで二人はピアノデュオを組み演奏活動を始めた。彼等はスティーブンのアレンジによるラベルの曲を初めて四手連弾で完全に演奏したことでも知られている。1984年ロスアンジェルスオリンピックの開会式に行なわれた84人のピアニストによるガーシュインの‘ラプソディーインブルー’はスティーブンの指導によるものだった。ちなみにトランペット隊にはクラウドの生徒が大勢参加しており、表彰式の度に杉山家ではテレビの前で大笑いだった。 私はスティーブンに何度か会ったことがある。ハンサムでナイスガイでクラウドとジェニーの自慢の息子だったが惜しくも46歳の若さでこの世を去った。 
 
1990年クラウドは教会で知り合ったパティと再婚した。かけがえのない家族を一度に失ったクラウドにとって優しく美しく、また病気の彼を世話してくれるパティは大切な人となった。現在クラウドが残した貴重な楽器や、膨大な資料を大切に管理している。
 

 
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恐怖の体験、、、本文中に述べたCLAUDE GORDON INTERNATIONAL BRASS CAMPの内容だが期間は約1週間で中身が濃い授業が朝から晩まで続く。その内要は奏法、呼吸法、TVや映画のレコーディング、スタジオミュージシャンについて、リハーサルについて、楽器のケア、即興演奏等である。 毎晩コンサートが開かれ、マニー・クレイン、 ボブ・オダーナル、 アルトゥーロ・サンドバル、 アラン・カプラン、 ドミニク・スペラ、 フランク・キャデラベック、 ジ.ブラスバンドなどと錚々たるプレイヤー達だった。 日本からは私の生徒を含めて延べ100名近くが参加し、有意義な体験をした。 ブラスキャンプは基本的に授業形式なので日本人がクラウドに個人レッスンを受ける機会は全く無かった。 しかしその内の二名(現在立教池袋中学高等学校音楽教諭、西澤宏佳先生と都内某楽器店金管講師、石川和彦先生)がどうしてもクラウドに直接教えを受けたいので私になんとかして欲しいという事だった。 クラウドにその旨を伝えたところビッグベアの自宅まで来れるのなら、という返事だった。 そこでビッグベアまで二人を乗せてドライブする事になった。 この事が恐怖の体験となるとは、、、、、、ビッグベアというのはロスから車で北へ5時間程いったスキー場として有名なリゾート地でクラウドを訪ねて行ったのは12月後半だった。 朝早くホテルを出発したので昼過ぎには着くと思い、路面凍結対策はせずに通常のタイヤで出かけた。 しかし私はフリーウェイ101を北に行くはずがその時に限って南に行ってしまった。 着いた所はなんとサンタモニカだった。 そのお陰で私達は海沿いの洒落たレストランでたらふくシーフードを食べる事ができたのだが、、、 そうこうしている内に昼過ぎになったので慌ててビッグベアに向かった。 かなり急いで運転したが着いたのはすでに夕方で気温も下がり周りは雪景色に変わって道路も凍結し始めていた。 私は相当減速して注意深く運転していたのだが、長い下り坂でタイヤが急に滑り始めブレーキを力一杯踏んでもきかず、そのまま滑って行ってしまった。 坂の終わりは大きな交差点で信号待ちの4WD車が止まっていたが、私達の車は滑り続け、私のドライビングテクニックではどうにもならず遂に追突してやっと止まる事ができた。 私はすぐに車を降りて謝りに行った。 その時もし運転手が今でいうところのボブサップのようなマッチョマンだったらどうしようと思ったが、出て来たのはメリル・ストリープ風の優しそうな中年女性だった。 彼女は怒るどころか「大変だったわね。気を付けてね。」と言ってくれたので私はホッと胸をなで下ろした。 もしも4WDが信号待ちをしていなかったらそのまま交差点の中に入って大惨事となったに違いない、、、と思うと今でも寒気がする。 皆さんくれぐれも異国の地での路面凍結には気を付けましょう。 しかしこの事故にもめげず、翌朝二人は元気一杯クラウドの個人レッスンを受けたのだった。 私の知る限り1979年からクラウドが亡くなるまでの間個人的にレッスンを受けたのは私の他にこの二名だけだったと思う。 彼等は恐怖の体験もしたが、クラウドの個人レッスンという至福の体験もしたと私は確信している。
 
 
 

駅からG−clefまでの道順です。

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